OFF THE HACK!

Ver 7.0 by NORIHIRO MITA

作者別: nori-m Page 1 of 4

新しいことって言うのはこういうこと

Kamakura,Kanagawa pref./Japan

その昔、カメラがアナログのフィルムの時代、AF(自動焦点)や自動露出(AE)を使うのは邪道、などと言われていた。今はプロでも多くの枚数をこの2つの自動の仕組みを使い、多少アレンジは入れるのがプロ、ってことになっている。あくまで結果としてだが、その時代の口うるさいマニアは目のまえにあるものしか見えず、近い未来を見通してものを語ることができない人がほとんどだ、と言うことだ。

2003年にデジカメが高度化を始めた。そのとき、ぼくは今のミラーレス一眼カメラが多く使われるようになるのを予想して(当時はまだレンズ交換式のミラーレス一眼カメラはなかった)、ネット上のカメラ好きサークルに「これからはレンズ交換式の一眼レフみたいなデジカメが出てくる」と、投稿したが「そんなことになるはずがない」というネガティブなコメントばかりを多数頂いた覚えがある。いや、ほとんどそういうコメントばかりだった。ミラーレスになるのは必然、と書いたが、かなりのバッシングを受けた。その反対を言う人は、撮像素子の読み出し速度が遅いとか、長いあいだにできたクイックリターンミラーなどの素晴らしい仕組みがなくなるはずがない、というような、要するに「現在の環境」をもとにその論を構成しているものが、すべてだった。しかし技術は進歩し、環境は変るのである。であれば、100人の敵など恐れる必要はない、と、思い至ったのを覚えている。

「カメラのきむら」の社長は、あんだったかのインタビューで「写真の歴史100年が、デジタルで3年で変わってしまった」と言っていたのを思い出す。デジタルで仕事をしていなければ、たしかにこの変化は予測はできなかったのかもしれない。

大事なことは、一つ一つのテクノロジーではない。そのテクノロジーを使って、なにを実現することを考えているか?である。テクノロジーは「なにがなんだかわからないもの」を扱う「研究」ではない。「目的」があり、その目的を実現させるためにある。

ぼくの論理は当時は明確だった。

もともと一眼レフは、レンズを通して写るそのままの映像を見るためにできた。クイックリターンミラーもペリクルミラー(CANONが開発し製品に使った半透明のミラー。それを使った一眼レフは「ペリックス」という商品になった)もペンタプリズムも、フォーカルプレーンシャッターも、要するにその目的を達成するために考えられた技術である。であれば、その目的を達成できれば、他の手段や他の技術でも使って構わないのだ。デジタルカメラの時代には、映像は撮像素子で電気に変えられた瞬間から、電気信号になるから、フィルムに記録する映像信号を分岐させてディスプレイに表示すれば、一眼レフの技術で目的にしたその目的は達成される。クイックリターンミラーやフォーカルプレーンシャッターなどの精密で微妙な機械部分がなくなれば、カメラは安くなり、メンテナンスのコストも下がる。しかも性能は機械でできたカメラ以上になるはずだ。その時のネックは撮像素子の映像信号読み取り速度だけだったが、それは、新しい技術が解決可能なことをぼくは知っていた。しばらくしたら、SONYが高速度撮影用の超高速映像信号読み出しができる撮像素子をアナウンスした。準備は整った。

新しい映像の時代が動き始め、ミラーレス一眼カメラも今や一般的になった。ぼくが予想した未来がやってきた。

じゃぁ、ここからは未来を語ろう。

8kの時代には3800万画素の動画が当たり前になる。動画を撮れば、そのひとコマを静止画として十分な品質で取り出すことができる。

この時代のカメラはどうなるのか?この時代の映像表現はどうなるのか?これを考えてみよう。あなたとぼくで。

想像力を働かせ、論理的に物事を考え、出た結論に従って自分の行動を規定し、それでも細かい修正は怠らず、世の中の動きも見据えて、方向転換も迅速に行え。

それがあなたとぼくの将来を作っていく。

——–

思えば、日本は「技術では一番」で経済が回っていたが、それは、大きく崩れた。この現状もかつては予想し得た。日本という場所では「作れば売れる」高度経済成長期があり、世界中から「これを作ってくれ」というリクエストが多く、それに応えていれば食えた。今は違う。「何を作れば売れるか考えないと食えない」時代になったのだ。だから「XXが作れます」では食えないのだ。今の日本の製造業の仕事の肝は「何を作ればいいかを考える」ことである。その時代の始まりはおそらくSONYの「ウォークマン」だろう、とぼくは思っているが、その重要さに日本の多くの製造業者は気が付かなかった。

次世代の製造業は「なにを製造すれば食えるか」を考えるところから始める。より上流を考える必要があるのだ。

シン・クライアントのある風景

Engakuji Temple in Kamakura/Kanagawa-pref./Japan

シンクライアントって「Thin client」。thinは薄いって意味だから、端末は普通のPCよりも容量もなく、強力なCPUを積んでいるわけでもない。要するに目の前にあるPCで画面やキーボードがあることはあるんだが、ほとんどの処理を、目の前にあるPCで行うのではなく、ネットワークでつながったサーバー側でまとめてやるわけですね。こういう仕組みをシンクライアントって言うんだよ。

USBメモリーをPCに挿入して、データをUSBメモリから本体にコピーする。その時にコピーされる本体はネットワークを通したサーバーにあるっちゅうわけですね。ウィルスだなんだかんだは、サーバーでまとめてシャットアウトできちゃうわけですよ。表向きにはそう見えないようになってるんですけどね。

デジタルフォレンジック(Digital Forensics)ってのもあってさ、この仕組みで法律事務所は文書管理しないと、米国政府は政府関係の仕事をそこには出さないことに決めたわけですね。そーなるとだな、米国政府に関連する他の国の政府もデジタルフォレンジックしないと付き合わへんよ、てなことになるわけですよ。だから日本政府も日本の大企業もこれからデジタルフォレンジックしないとダメなんだよ。そう米国の連邦政府が要求してるわけね。

でね、このデジタル・フォレンジックをするために、シンクライアントはその前段階なんですね。そのためのシンクライアントなんですよ。

でさ、デジタルフォレンジックやるとさ、全ての文書はいつ誰がどこで起草して、何月何日何時何分何秒にその文章のどこをどう変えたかなんて全て記録に残る。ロールバックと言って、日時を指定すれば、その時点の文書が手に入る。文書の廃棄もできなくなる。これ、米国政府が日本政府にやらんとあかんよ、いうとるわけなんですな。ってことはさ、いま問題になってるあれとかこれってできなくなっちゃうんだな。つまりさ、この辺りのデジタル系の知識は、これから政治家だって企業人だって、上から下まで必須になるんだわ。知らないと大変なことになるんですね。それが世界の普通なんだわさ。「おれっちはパソコン弱くて」って人は、「ぼくは日本語ができません」と言ってるのと同じ、っちゅうわけなんだよね。大変な世の中になりましたなぁ。

「過去の日本」は帰って来ない

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

経済を始め、あらゆる分野での、日本の存在感がかつてほどではなくなり、それが明確且つ広範に、やっと公知のこととなってきた。すでに数年以上前からこの事実は産業界では言われているのだが、ようやく日本国民一般の知るところとなった。「日本は衰退している」のである。

しかし、本当のことを言うと、それは、衰退ではない。「日本が一番良かった時代が終わった」だけであって、高度経済成長は「一夜の夢」であったのは、歴史を勉強をすればわかる。「あの時代」はいくら望んでも戻ってこない。威勢のいいその時代を知る高齢者がいくら頑張っても元には戻らない。

つまり、高度経済成長後の日本という地域はもとに戻った、のだ。かぼちゃの馬車がもとのかぼちゃに戻っただけだ。

では、この「日本という地域」を「近年稀に見る高度経済成長」させたのは、何だったのだろうか?私はそれは「世界的な製造業の産業革命以来の隆盛」「第一次世界大戦、第二次世界大戦の2つの戦争による大量殺戮と大量破壊による戦後復興需要」「冷戦の最前線の一歩手前という日本という地域の立地」が重なった、非常にラッキーな場所に日本という地域がいたからだと、私は思う。日本という地域の製造業は、第二次世界大戦後の50年間に隆盛をきわめたが、その夢はもう終わった。

日本人が優れていたということでもない。しかし、たとえ日本という地域に住む人が他の地域の人たちよりも優れていたとしても、日本の経済はもとに戻らないだろう。立地による「ラッキー」はなくなったからだ。

そして次の時代が訪れた。地域を拠り所としない「グローバル化」の時代である。この時代を作ったのは「情報」「もの」「人」の、地域を超えた動きであり、それが「価値」をもグローバル化した。その根底にはインターネットがある。デジタルテクノロジーを、世界の人々は全て平等、という哲学の下に結集させたのが、インターネットである。インターネットは政治やビジネスの道具にもなるが、根本的に「地域」を消滅させる麻薬、あるいは妙薬である。それが麻薬であれ妙薬であれ、インターネットは人類に新しい時代をもたらしたと言えるだろう。

人類は、かつて産業革命という新しい時代に、もちろん未経験で、創意工夫でなんとか対応してきた。そして今日があるのである。であれば、次の大きな変化であるグローバル化も乗り切ることができるだろう。

過去の経験は、だから役に立たない。過去を捨て、新しい時代に適応して新しい価値を作ってこそ、人類の明日がある。

「旧世代」と「新世代」

私は20年前以上のこの世界を日本も含めて見聞きしてそこで生活していた。直近の10年も見聞きし、そこで生活している。幸いなことに、現在も、かつてとは立場も役目も違うが、現役引退はしていない。だから私は、20年以上前の経験、言い換えれば日本の高度経済成長期の経験をした世代を「旧世代」と呼び、そういう経験をしていない人を「新世代」と呼んでいる。私はたまたまだが「インターネット」を日本に持ってくる仕事をした。直接的・間接的の両方で、だ。だから、私から見ると、「新世代」と「旧世代」を区別するキーワードは「インターネット」である。

これは私だけの見方ではないと信じているが、インターネットによって、「人」「モノ」「カネ」「知」のグローバル化・ボーダレス化に火がついた。最初はチョロチョロとしか燃えていなかったその火が、燎原を焼く火のように、瞬く間に燃え広がり、人類を覆った。その根底には進歩という名前の変化である「デジタルテクノロジー」がある。このテクノロジーを様々な思惑の人たちが、自分の都合の良いように解釈し、使おうとした。しかしそのデジタルテクノロジーを複雑に組み合わせて、インターネットを考え、実際に作って運用する人が出ると、インターネットは人類に大きな影響を与え始めた。遠隔地との情報のやり取りが、簡便で安価ですばやくできるようになり、人類の「地域による棲み分け」でバランスしていた社会が大きく侵され、新たな「グローバル」というコミュニティができて急激に成長するようになると、多くの「旧世代」の持つ考え方が「まるで意味のないもの」に成り下がった。

代わって「新世代の人類」が出現し、GAFAはその現代における、トップランナーとなった。

だから、この流れは誰しも抗することができない、人類の流れである、と、私は感じている。

そして今というときは「旧世代」と「新世代」闘争の時代である。かつてはイデオロギーで「東西」の闘争の時代があり、それに続いて、貧富で「南北」の闘争の時代があり、今は「ローカル文化(旧世代の文化)」と「グローバル文化(新世代の文化)」の闘争の時代である。「東西」「南北」ともに「地域」の対立であったが、現在は「ローカルとグローバル」の対立である。この戦争は、やがて「新世代」の勝利に終る。もしそうでなければ、人類の未来はない。しかも「旧世代」はこれから早いスピードでこの世から消えていくのだ。

若い人たちは「グローバルな新世代」という「革命軍」に、嫌でも所属する。ただ、それを自覚している若者は少ない。かつての「視覚的にわかりやすい」戦争のようなドンパチではなく、じわじわと変わっていく人の頭の中での、それは戦争だからだ。

インターネットは人類の在り方や存在意義を根底から変えていく役割を担って、この人の世に産まれた。地域というくびきを解き放ち、新しい人類の生きる意味を人類全体で考える道具にそれはなった。これから、地域に立脚した汎ゆる文化 ー例えば宗教などもその一つだー を内部から崩壊させていくだろう。

既に、旧世代の敗北は決まった。かつての産業革命はそれまでの人類が経験したことのない大きな変化で、その時代を想像するに、今と同じようなことが起きていたのだろう。であれば、人類は今回の「新しい環境の変化」に、柔軟に、かつ、古い自分を壊し新しい自分を作る、という覚悟を持って臨めば、人類の次の時代が開けるだろう。

それができる人が「新世代」である。そうでない人は「旧世代」に属する。それだけのことだ。頭をフルに働かせ、予期せぬ新しい変化、経験も役に立たない変化に、過去の経験などは捨てて、過去の自分も捨てて、臨むべきことに臨むのが、人類の人類たるチカラの発揮どころである。

もしもあなたが、悲しいことに「旧世代」を自覚しているのであれば、あなたのやることは「新世代」と戦うことではない。負ける戦は最初からやらないことだ。敗北を認め「新世代」の肩を叩き、「ぼくはもう疲れた。キミたちに全てを任せる」と一言言って、戦場を諦め、戦場を離れることである。

そうしなければ、旧世代のあなたは「新世代」から「悲惨な最期」を与えられるのがオチだからだ。

私はまだ「新世代」と「旧世代」の橋渡しの場所にいる。しかし、この立場も「旧世代」がなくなってしまったら、居所がなくなる。ベルリンの壁が崩壊し「東西冷戦」がなくなった時と同じことが起きる。おそらくそれは、もうすぐやってくる。この仕事からぼくが開放されたら、ぼくは何をしようか?今から「定年後」を考えている。

キャッシュレスの大混乱

外に出ると最近はドトールコーヒーとか、タリーズコーヒーとか、スターバックスなんかのカフェを使うことが多いのだが、こういうところでは、自社のポイントカードと他の会社のポイントカードが使える。でも、こういったポイントカードの併用はほとんどできない。二重三重でポイントを取られるのが問題になるのと、禁止事項なども増えて、システムが複雑になりすぎ、開発側がその複雑さに対応できない。システムができたとしても、使い方も複雑にならざるを得ず、使う側の店舗のアルバイトの人も複雑さには対応できない人が多いからね。

それができたら、お店のバイトじゃなくて、開発側になれるわけですよ。そして客も当然その複雑さには耐えられない。こんな世界に誰がした?って感じだが、おそらくこのままでは、同じことが、介護福祉なんかでも始まる。となると、サービスを受ける被介護者は、複雑に絡んだ抽象的思考ができる人でないと無理だなぁ。そういう被介護者ってどのくらいいるんだろうなぁ。これって、まだそんなに大事になってないことなんだが、実はすごく大きな問題になるんだよ。気がついてる人は、とても少ないけどさ。

更に加えて、なんだけど、最近はバーコード決済とか、ポイントカードのスマホアプリ版とかリアルなプラスチックのカードが併用できたりできなかったりとか、店舗チェーンプライベートのポイントカードとか、まぁ乱立状態で、金はなくてもカードでサイフがいっぱいになるわけざんすよ。

で、スマホにアプリカード入れると、どれがどれだかわからん。アイコンいっぱいで間違えて押すと、さらにおかしなことになったりする。この前なんかセブンイレブンでdocomoのdポイントカード出したら、あ、違うわ、とか、ヨドバシカメラでビックカメラのポイントカード出して「これ違います」とか言われたりね。でさ、たくさんあるカードをズラッと店頭で出して、この中でこのお店で使えるもの使ってくれんかな?みたいなおじいちゃんもいるわけですね。

僕はそういうことはやってないけどね。店員さんをカードのランチャーとして活用するわけです。で、店員さんもわからないので「店長〜」とかなって、レジ大混乱になるわけね。みんなやらないでね。ったく、どこが「便利で簡単」なんだかわからんね。

バイトに複雑なことさせたらだめでしょ。

弱視の人とかどうするんだろうね。こういうのもインターフェイス統一して、アプリ一つで勝手にどのカード使うかとか、そういう仕組みはできるはずなんだが、誰もやろうとしないわけね。システム開発というのは、そういうカネにならないところをカネにする、っていうビジネスの仕組み作りができる人がいないんだわ。だからみんなバラバラにやり始めるので、こういう惨状になるわけですね。

スタバでドトールのカード出すとか、タリーズでnanaco出すとか、わざとやる人もいたりして、見てるとおもろいんだが。いや、ぼくはやってないけどね。

「便利で簡単」が、無秩序にたくさんできると「不便で難しく」なる。当たり前だと思うけど。かといって、いまさら秩序は求めようもないわけで。それがバーコード決済やポイントシステムの現状だねぇ。

スマホをめぐる世代の断絶

ぼくらがインターネットを日本に持ってきた頃って、1980年代終わりくらいなんだが、このあたりでは、時代の流れも遅く、新しいものの流行り廃りって、だいたい数年単位だったんじゃないかと思う。今はそれが数日単位くらいに速くなっていて「世の中ってものは10年位じゃ変わらない」くらいに思っている世代には明らかに「ついていけない」時代になったように思うのだ。

それが良いとか悪いとかではなく、そういう時代に変わった、というしかないが、ついていけない、と思っている人はやはり多いのはしょうがないだろう。特に、携帯電話(ガラケー)の時代から、今はスマホの時代に変わった昨今にあっては、職探しから恋人探し、飲み会から勉強、学校選びまで、全てがスマホを通したインターネットの時代に変わった。そのことをがわかっていないと「デジタル・デトックス」をしたとたんに、清々しい気分になるのではなく、なにもできない窮屈な感じが出てきたり、開放感も得られなかったりする。

あくまで結果としては、だけれども、自分はインターネットを日本に持ってきた一人だが、人生の暇つぶしは全てインターネットの中にあるか、それをきっかけとする、という時代に急激に変わった。ここまで急激に変わると、ついていけない人も多く、そういう人たちで集まりを作って、古いものにノスタルジーを感じる人も増えたが、ネット上でそういう人たちのサークルはどんどん小さくなってきて、高齢化している。しかし、高齢化も悪いことではなく、高齢化しているのに、その高齢者は非常に元気でアクティブだ。他の良い人生を送ってくれれば、と思う。

今起きている様々なことは、おそらく、そういう「旧世代」と「新世代」の急激な切り替わりに伴う「歪」の現象そのものがほとんどではないかと思う。高齢者や旧世代の人たちが、「スマホを若者から奪え」と言う。それは諸悪の根源だ、という。たしか、前のときも「ゲーム脳」とか「携帯脳」とか言うのが言われたことがあったが、実際あれは「嘘」だったこともバレてしまった後だ。

若い人間から、このコミュニケーションツールを奪っても、時代は元には戻らない。そこだけ没落していくだけだ。奪うな、やるがままに任せよ、と思う。

やがて始まるのは、旧世代の文化を抹殺する新世代の動きである。世の中の動きの、この速さについていけない人はもういなくなるだろう。



「ローカル」がなくなる

Kobe City, Hyogo pref./JAPAN

従来の「地域を元にした文化」というのは、「地域」が「排他」なものである。たとえば、人は「Aという地域にいながら、Bという地域に同時にいる」ことができない。つまり「排他」が自然だった、ということになる。おそらく、これが、これまでの人間の普通の感情の根底にある。だから、「宗教Aを信じていると同時に宗教Bも信じている」という人もいなかった。

しかし、副業なども当たり前になると「Aという会社につとめていながら、Bという会社の社員でもある」ということは普通になる。当然「Aという宗教を信じていながら、Bという宗教も信じている」だって、あっておかしくはない。それを、現状の古い価値観の宗教家や宗教団体の長が認めていないだけだ。

リモートワークも当たり前になると、米国にいながら中国の会社の社員でもあって、その業務もこなしつつ、日本の会社の仕事もしている、という例は当然出てくるだろう。インターネットがあるからこそ、そういうことができるのだ。

ということは、世界は急激に変化しており、ボーダーレスが当たり前の世の中が既に来ている。パスポートも「A国のパスポートも持っているがB国のパスポートも持っている」というのが、正式にできる国も増えた。

であれば、今後は「AもBも同時に」ということを考えたり、できる人間が増えていくだろう。

音楽だって、既に和楽器で奏でる西洋音楽、というジャンルもあったし、中国の楽器で奏でるロックンロールもあるわけだしね。

宗教の例で言えば「自分は仏教徒だが、イエス・キリストの言う神も存在を信じている」ということが自然である、ということも始まるのだろうと思う。そうなると、社会はどう変わるのか?楽しみだ。

もう一眼レフは要らない

昔は「いいカメラを持っているのは職業写真家」だったんですね。いい写真を撮るには、いい機材がまず必要だったからね。

今は素人でも、カネがあれば、あるいは借金できれば「職業写真家気取り」の「いいカメラ」は持ってるわけです。あるいは、最近はレンタルもあるよね。

今は適当に「いい写真」が適当に、スマホで撮ろうと思えばできるんだが、今後は構図とか、シチュエーションとか、そういう「撮る人の能力」が出るわけです。モデルさんを撮るのであれば、そのモデルにいい気分になってもらって、いい表情をしてもらうとか、それもプロの能力のうちなんだけどね。職業写真で鍛えられた目は、やはりアマチュアのそれとは違うんです。だから、同じ機材を使っても、その差は歴然と出ます。

ゴルフとか、ピアノなんかの楽器もそうだよね。いくらいいものを持っていても、腕がダメならダメなものしかできない。反対に、アマチュアがもっている機材を使っても、プロはそれなりのものを残す。

だからさ、某スマホの宣伝で「もう一眼レフはいらない」とか言って「これがスマホで撮った写真です。素晴らしいでしょう?」とやるんだが、当然、素人が同じものを撮れるわけはない。でも、その宣伝で「自分も素人だけど、このスマホにすると、プロのような写真が撮れるかもしれない」というように騙して、高い商品を買わせようとするわけですね。

商品の高い安いと、できる作品は、関係がある部分もあるけど、けっこう関係ない。この微妙なところで「嘘ついてないでしょ」と広告主は言えるわけですよね。

つまり、現代の「欲しがらせて需要を作る」という「資本主義」の本質がここに垣間見えるわけですね。

コミュニケーションの「コスト」と「同期」「非同期」

コンビニのレジでは「レジ作業をしているときはイヤホンを外してください」という表示があるところがあるどうだ。

コンビニのレジもそうだけど、対面で人とコミュニケーションするときは「あなたとのコミュニケーションに一生懸命です」という「サイン」を相手に送って、相手の関心をこちらに向ける、ということはけっこう当たり前に必要です。現状ではね。

付けているイヤホンを外すことで「私はあなたの話を真剣に聞きます」を相手にボディ・ランゲージで伝え、それを伝えられた相手はその返信を返す。そこから、コミュニケーションを始める。これは、人間が対面でコミュニケーションするときの、最初のプロトコルなんですよね。コンピュータのデータ通信でも、最初に「コネクションを張る」→「実際のコミュニケーションをする」になります。そして最後に「今のやり取りはここで終了ですね」というシグナルも送る。そうすることによって、コミュニケーションをしている人のどちらもが、次のコミュニケーション行動に移れます。

ただし、こういう文化は将来変わっていく可能性があるから、あくまで「現状では」とだけ言っておくんです。これは文化の問題だからね。時間とともに、環境の変化とともに変わるものだからね。

時代が進むと、人と人との対面のコミュニケーションではなく、コミュニケーションは遠隔地同士の「電話」になり、次にお互いの行動が時間的に「非同期」であっても成立する「メール」や「メッセージング」になる。そうなると、そして、そういうコミュニケーションがメインになってくると、文化も変わってくるわけですね。現代人は忙しいので、時間的に「同期」するコミュニケーションは、おそらく忌避され「非同期」コミュニケーションに移っていくんでしょうね。

人と人とが肌をあわせるようなコミュニケーションはありますよね。これは人間が生物であれば、どうしても外せないわけです。つまり「非同期」コミュニケーションは「非人間的」に見えてしまう。しかし、コミュニケーションにかかるコストがぎりぎりまで詰められている現代においては、コストがかかる「同期コミュニケーション」は、非常に稀になり「非同期コミュニケーション」が、一般的に使われるようになる。コストが安いからです。

だから、必ず「非同期」に全部が行く、ということではなくて、「同期」はコストがかかり「非同期」はコストが安い。だから、「同期」の機会は減り「非同期」が日常のコミュニケーションになる。そういう社会・文化になる、ってことです。これはコミュニケーションのコストの問題なんです。

音楽で言うと「ライブ」はコストが高い。録音はコストが低い。オンラインのオンデマンドの音楽は更にコストが安い。だから、使えるお金が限られるから、日常的には「非同期」なものを使わざるを得ず、特別なときに「同期」のものを使う。

つまり、コミュニケーションをコストで考える思考がないと、情緒的に「(同期コミュニケーションしかなかった)昔はよかった」になる。そりゃ、同期コミュニケーションはすごくいい。お金が無限に使えるならね、ってことですね。

そもそもハロウィンは。。。

「そもそもハロウィンは」などと言う気はない。古くは仏教は日本に来て全く別ものになったし、別ものになることを拒否したキリスト教は、徹底的に迫害され、その後にやってきたキリスト教最大の行事であるクリスマスはケーキ屋のケーキ販売促進のお祭りにしてしまった。バレンタインデーもケーキ屋の売上増加祭りにあやかって、二匹目のどじょうを狙うチョコレート菓子業界がチョコレート販売促進週間にして、やっと日本で生きながらえた。インテリが嫌われるネット時代には「歴史」「宗教」は無視される。ただの仮装馬鹿騒ぎになったハロウィンくらい、なんでもなかろう。

さあ、世界の宗教行事よ。日本に来て日本という地域の経済活性化に一役買うのだ。日本における宗教の価値なんてその程度のものだ。そういう日本文化に溶け込んでこそ、宗教はこの地で生きる場所を得ることができるはずだ。

盃の中の酒ではなく、金でできたその盃だけが鋳潰されて、ただの金として評価される。ハロウィンよ、この宗教不毛の荒野・日本にようこそ。ここで君がどのような変貌を遂げてこの地に生き残るか?それはきっと、面白おかしいドラマとして、地球の歴史の一部になるだろう。永遠の喜劇が、ここ日本で始まるのだ。

Page 1 of 4

Powered by WordPress & Theme by Anders Norén