今回のパンデミックはまだ続いている。「いつ終わるか」「ウィルスの正体はなんなのか」「特効薬はあるのか」「特効薬は作れるのか」「どんな症状があるのか」「この先何が起きるのか」どれもこれも、科学者はそれぞれに違う意見を言い、それぞれに違う答えを出し、それぞれにそれぞれがバラバラだった。「喫煙者には重症者はいない」「喫煙者は重症者になる可能性が高い」をはじめ、食い違う話は多かった。全く科学には答えを出せないことがわかっただろう。

科学は「答えを出すための方法論」はある。しかし「答え」はその方法論でこれから「見つけに行く」のだが、それはけっこう長い道のりで、今は答えはない。しかもこんなに短期間では、科学は答えが出せないことがほとんどだ。また、答えが出たところで、それが後で覆ることもある。「実は違っていたのだ」と、ずっと後で分かることもある。そしてその「ずっと後で出た答え」も、更にその後に行われた研究で、間違いであったことも分かったりする。

それでも、科学者が持つ、物事の探求の方法論は、人間の歴史の中で、認められている。

「研究」と言うのは「わからないこと」を、なんとか人間がわかるように調べることである。応用はその後だ。科学には答えはない。科学者は、科学者ではない人が知らない秘密を知っているのではない。だから、科学者から「秘密」を聞いて答えを得ようとしても、失敗する。答えはないからだ。科学者が知っている秘密は「物事の探求の方法」であり、科学者自身は答えを持っていない。

新型コロナウイルスの騒ぎと言うのは、科学と科学でないものの、人の社会の中でのぶつかり合い、ということでも、興味深いものだった。自然は単純ではない。昨日のイモムシが今日は蛹になっている。蛹かと思ったら、すぐにチョウになる。晴天と思ったら、突然雨になる。時系列的にも一定ではない。全く健康だと思った人が、今日は病気で亡くなっている。自然は複雑である。そして変化のスピードは速い。しかし、人の社会の中は、単純にしておこう、という合意がある。そうしないと、ヒトの脳がその変化のスピードについていけないからだ。

しかしヒトと接するヒトはなんとかAさんはAさんでいよう、と意識しているが、ヒトもまた自然の一部であり、必ずしも、いつまでもAさんがAさんでいるという保証はない。しかし、それを前提にすると、社会が成り立たない。人の世とは、おそらく、いつまでたっても、そういう「仮想の上に建ったまぼろしの楼閣」のようなものだろう。

ヒトの社会の外は、変化が激しく変化のスピードも速い。ヒトの平均的な脳はその変化についていけない。だから、ヒトは、社会を作って、その中はヒトのスピードでヒトが許容できる変化だけを作った。そして、長くこの社会の中にいると、自然のヒトを超えた過酷さを忘れる人も増える。そして、それ自身が、自然が作り出した自衛の仕組みであるヒトとその社会を崩壊させ、自然に返していく。だから、栄えた文明ほど崩壊に近い。

新型コロナウイルスのパンデミックが照らし出した、自然から見たヒトとその社会とは、おそらくそんなものだろう。