Ver 7.0 by NORIHIRO MITA

月: 2020年10月

フィクション:その日

※以下の文章はフィクションです。

庭の柿の木が大きくなりすぎて、自分の部屋にあまり日差しが入らなくなった。仕方がないので、手持ちののこぎりで硬い柿の木を切り始めたそのとき、胸ポケットに入れているスマートフォンにメールが入った。

「パリの連絡が途絶えました」

その一行だけだったが、なにかとんでもないことが起きていることがわかって、すぐに本部に連絡を入れた。

「何度も呼んでいるんですが、返事がありません。突然、みんないなくなってしまった。そんな感じです」
「先方には、こちらから見られる、街角のリモートカメラがあるだろう。それを見てまた報告をくれ」
「わかりました」

電話は切れたが、10分ほどして、またメールが入った。

「誰もいません。救急車は時々カメラの前を通り過ぎるのですが、それ以外に人の気配がない。。。」

部下の小森くんの声はか細かった。また電話を入れた。

「おい、ニューヨークはどうだ?連絡してみろ。サンパウロもだ。あぁ、ベルリンも、台北もだ」
「もちろん、連絡を入れてみました。台北以外、みんな返事がないです」

世界は沈黙を始めたのか?。人類の歴史は終わろうとしているのかもしれない。そんなSFみたいなことが、頭をよぎった。

「わかった。今から本部に行く。そのまま、他の所とも連絡してみてくれ」
「わかりました」

すぐにクルマを飛ばして、本部に行った。

「小森くん。小森くーん!」

休日の本部のフロアに私の声が響いただ、返事はない。しばらくフロアを歩き回っていると、フロアの隅っこで、小森くんがPCの画面を除きながら「固まって」いた。

「おい、小森くん」
「あ、部長。返事がないんです。。。」

小森の顔は青ざめていた。呆然自失、といった体だ。

「部長、でも部長とお話をした直後、ニューヨークからはメールが入りました。これです。」

小森はPCの画面を指差して、メールの画面を見せた。

「This town will be shutting down, soon.」

この一行だけが書いてあった。

小森くんが続けた。

「NY、パリ、サンフランシスコ、ベルリン、サンパウロ、台北。。。一つずつ、確実に連絡がとれなくなっています。今連絡ができているのは、北京とソウル、台北だけです」。
「わかった。数分ごとに、連絡して、必ず返事をくれ、と言っておけ」
「はい。わかりました」

そして数時間。私はまだ本部にいた。世界はまるでろうそくの火が1つ1つ消えるように、連絡が取れなくなっていった。そして、その日曜日の夜、午前零時。小森がつぶやくように、私に言った。

「周辺の都市すべてと連絡が取れなくなりました。世界は終わったのかもしれません」
「そ、そんな!」

世界には、日本しかなくなった。

科学には答えがない

今回のパンデミックはまだ続いている。「いつ終わるか」「ウィルスの正体はなんなのか」「特効薬はあるのか」「特効薬は作れるのか」「どんな症状があるのか」「この先何が起きるのか」どれもこれも、科学者はそれぞれに違う意見を言い、それぞれに違う答えを出し、それぞれにそれぞれがバラバラだった。「喫煙者には重症者はいない」「喫煙者は重症者になる可能性が高い」をはじめ、食い違う話は多かった。全く科学には答えを出せないことがわかっただろう。

科学は「答えを出すための方法論」はある。しかし「答え」はその方法論でこれから「見つけに行く」のだが、それはけっこう長い道のりで、今は答えはない。しかもこんなに短期間では、科学は答えが出せないことがほとんどだ。また、答えが出たところで、それが後で覆ることもある。「実は違っていたのだ」と、ずっと後で分かることもある。そしてその「ずっと後で出た答え」も、更にその後に行われた研究で、間違いであったことも分かったりする。

それでも、科学者が持つ、物事の探求の方法論は、人間の歴史の中で、認められている。

「研究」と言うのは「わからないこと」を、なんとか人間がわかるように調べることである。応用はその後だ。科学には答えはない。科学者は、科学者ではない人が知らない秘密を知っているのではない。だから、科学者から「秘密」を聞いて答えを得ようとしても、失敗する。答えはないからだ。科学者が知っている秘密は「物事の探求の方法」であり、科学者自身は答えを持っていない。

新型コロナウイルスの騒ぎと言うのは、科学と科学でないものの、人の社会の中でのぶつかり合い、ということでも、興味深いものだった。自然は単純ではない。昨日のイモムシが今日は蛹になっている。蛹かと思ったら、すぐにチョウになる。晴天と思ったら、突然雨になる。時系列的にも一定ではない。全く健康だと思った人が、今日は病気で亡くなっている。自然は複雑である。そして変化のスピードは速い。しかし、人の社会の中は、単純にしておこう、という合意がある。そうしないと、ヒトの脳がその変化のスピードについていけないからだ。

しかしヒトと接するヒトはなんとかAさんはAさんでいよう、と意識しているが、ヒトもまた自然の一部であり、必ずしも、いつまでもAさんがAさんでいるという保証はない。しかし、それを前提にすると、社会が成り立たない。人の世とは、おそらく、いつまでたっても、そういう「仮想の上に建ったまぼろしの楼閣」のようなものだろう。

ヒトの社会の外は、変化が激しく変化のスピードも速い。ヒトの平均的な脳はその変化についていけない。だから、ヒトは、社会を作って、その中はヒトのスピードでヒトが許容できる変化だけを作った。そして、長くこの社会の中にいると、自然のヒトを超えた過酷さを忘れる人も増える。そして、それ自身が、自然が作り出した自衛の仕組みであるヒトとその社会を崩壊させ、自然に返していく。だから、栄えた文明ほど崩壊に近い。

新型コロナウイルスのパンデミックが照らし出した、自然から見たヒトとその社会とは、おそらくそんなものだろう。

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