【「理系」の武器は「数字」】
「理系」の人間は、物事を数字で見て判断し、自分の行動に反映させ、マスコミなどの報道とか、上司の意見や所属する組織等の多くの行動に追随せずに行うことができる。なぜだろう?

数字で導き出し、自分が持つに至った意見(実際には意見ではなく「得た知見」なので、そこに本人の意思はない – しかし、意見のように見えるんだね)が、自分以外のものに影響されてかたち作られてはいないことを知っている。また、それは当たり前のことだと、理系の勉強をする上で教わる。そして思考や身体にそれを染み込ませる。

【100Vでは感電するけど5Vでは感電しない】
例えば、家庭用の電気の100Vが流れているところに触れれば感電して、人は死んでしまうかもしれないが、USBで充電する5Vの流れている線に触れても、人はなんともない。100という数字と、5という数字には大きな大小があるからだ。この事実を実際の感電という行為で知ることもある。しかし、事前に数字でそれを知っていれば、5には触れてもなんともないが、100に触れたら、危険があることがわかっているから、100は十分気をつけて扱う。だから、危険を避けることができる。

数字とは、人間が自然を知り、自然と対話するときに使う、大きな武器なのだ。なによりも、自然の中で自分の身を守る強力な武器なのだ。「理系の人間」というのは「人間を取り囲み、人間自身もそこから逃れられない自然の持つ法則」を得て、思考に染み込ませ、そこから人間のいる現在の自然の中の位置を測り、自然の法則を使って、人間に役に立つことを考えて、ものを作ることや、仕組みを変えたり作ったりすることをする。人間が自然というものの法則を知り、その法則に沿って、人間社会を平和かつ安定的に作り変え、人間の社会ができるだけ長く生存できるように考え、それを実行して行く、そういう役目を負っている。

【理系人間は人間社会の「防人」。その武器は「数字」】
理系の人間とは、人間社会を外部の強大な敵から守る、自然界と人間界の間で自然と対話し、戦をする「防人」なのだ。そして、自然と戦ったり親和したりするための、人間の持つ武器は「数字」と「論理的思考」、そして考えた結論に従って自分を変え、実行するべきことを断固として実行する「実行力」だ。

ときに、それは人間社会の変容が必要であれば、人間社会に警告を発し、人間社会そのものを作り変えることさえ、仕事にせざるを得ない。自然に立ち向かう人間社会の総力戦が必要なときはそうする。なぜならば、社会を作る人間の多くは、社会の中にいて、自分たちを取り巻く自然という強大な敵がいることを忘れてしまうことが多いから、自分の都合で、自分の身の周りのことはなんとでもなる、と、思い込んでしまうことがとても多いからだ。人の社会の仕組みが長く続いていると、その内部にいる人間には、自然さえ見えなくなる。人間の社会の内部さえ見えていれば、人間は生きていけると思いこんでしまう。それに慣れてしまう。それも自然の法則の上でできていることさえ忘れる。人間とは、そういう生き物であるからだ。そういう人間という存在さえも「自然」が作ったものだとしたら、人間の中には、もともと「自己崩壊の遺伝子」があるのだ、と考えることもできるだろう。だから、私達の人間社会はそういう「自然に運命付けられた崩壊の因子」をいつも内包している、ということに意識的である必要がある。そうしないと、人間の社会を自然から守ることができない。

【アポトーシス】
細胞には「アポトーシス」という仕組みが組み込まれていることが知られている。なぜそうなるかは完全にわかっていない。生き物が生きていく上で必要ないものができてしまったとき、それを細胞の自殺を演出して、なくしていく、という仕組みだ。自然の怒りに触れ、自然がその自身で作った創造物の部分、あるいは全体を、自ら破壊する。そういう仕組みが自然にはあるのだ。具体的に。

たとえば、人間の胎児には、お母さんのお腹の中にいるときには「水かき」がある。しかし、胎児がお母さんのお腹から出てくるときには「水かき」は消えている。「アポトーシス」が働き、水かきを消滅させたのだ。水かきが必要なくなる環境に出る前に、水かきは消える。

【「理系」は人間界と自然界の間にいるガードマン】
わたしたち人間自身が、自然の怒りに触れずに生きながらえるために、理系の人間はいる。そして数字を使って試行錯誤して、なんとか人の世の続くことを願い、奮闘している。武器は数字だ。