Kamakura,Kanagawa pref./Japan

その昔、カメラがアナログのフィルムの時代、AF(自動焦点)や自動露出(AE)を使うのは邪道、などと言われていた。今はプロでも多くの枚数をこの2つの自動の仕組みを使い、多少アレンジは入れるのがプロ、ってことになっている。あくまで結果としてだが、その時代の口うるさいマニアは目のまえにあるものしか見えず、近い未来を見通してものを語ることができない人がほとんどだ、と言うことだ。

2003年にデジカメが高度化を始めた。そのとき、ぼくは今のミラーレス一眼カメラが多く使われるようになるのを予想して(当時はまだレンズ交換式のミラーレス一眼カメラはなかった)、ネット上のカメラ好きサークルに「これからはレンズ交換式の一眼レフみたいなデジカメが出てくる」と、投稿したが「そんなことになるはずがない」というネガティブなコメントばかりを多数頂いた覚えがある。いや、ほとんどそういうコメントばかりだった。ミラーレスになるのは必然、と書いたが、かなりのバッシングを受けた。その反対を言う人は、撮像素子の読み出し速度が遅いとか、長いあいだにできたクイックリターンミラーなどの素晴らしい仕組みがなくなるはずがない、というような、要するに「現在の環境」をもとにその論を構成しているものが、すべてだった。しかし技術は進歩し、環境は変るのである。であれば、100人の敵など恐れる必要はない、と、思い至ったのを覚えている。

「カメラのきむら」の社長は、あんだったかのインタビューで「写真の歴史100年が、デジタルで3年で変わってしまった」と言っていたのを思い出す。デジタルで仕事をしていなければ、たしかにこの変化は予測はできなかったのかもしれない。

大事なことは、一つ一つのテクノロジーではない。そのテクノロジーを使って、なにを実現することを考えているか?である。テクノロジーは「なにがなんだかわからないもの」を扱う「研究」ではない。「目的」があり、その目的を実現させるためにある。

ぼくの論理は当時は明確だった。

もともと一眼レフは、レンズを通して写るそのままの映像を見るためにできた。クイックリターンミラーもペリクルミラー(CANONが開発し製品に使った半透明のミラー。それを使った一眼レフは「ペリックス」という商品になった)もペンタプリズムも、フォーカルプレーンシャッターも、要するにその目的を達成するために考えられた技術である。であれば、その目的を達成できれば、他の手段や他の技術でも使って構わないのだ。デジタルカメラの時代には、映像は撮像素子で電気に変えられた瞬間から、電気信号になるから、フィルムに記録する映像信号を分岐させてディスプレイに表示すれば、一眼レフの技術で目的にしたその目的は達成される。クイックリターンミラーやフォーカルプレーンシャッターなどの精密で微妙な機械部分がなくなれば、カメラは安くなり、メンテナンスのコストも下がる。しかも性能は機械でできたカメラ以上になるはずだ。その時のネックは撮像素子の映像信号読み取り速度だけだったが、それは、新しい技術が解決可能なことをぼくは知っていた。しばらくしたら、SONYが高速度撮影用の超高速映像信号読み出しができる撮像素子をアナウンスした。準備は整った。

新しい映像の時代が動き始め、ミラーレス一眼カメラも今や一般的になった。ぼくが予想した未来がやってきた。

じゃぁ、ここからは未来を語ろう。

8kの時代には3800万画素の動画が当たり前になる。動画を撮れば、そのひとコマを静止画として十分な品質で取り出すことができる。

この時代のカメラはどうなるのか?この時代の映像表現はどうなるのか?これを考えてみよう。あなたとぼくで。

想像力を働かせ、論理的に物事を考え、出た結論に従って自分の行動を規定し、それでも細かい修正は怠らず、世の中の動きも見据えて、方向転換も迅速に行え。

それがあなたとぼくの将来を作っていく。

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思えば、日本は「技術では一番」で経済が回っていたが、それは、大きく崩れた。この現状もかつては予想し得た。日本という場所では「作れば売れる」高度経済成長期があり、世界中から「これを作ってくれ」というリクエストが多く、それに応えていれば食えた。今は違う。「何を作れば売れるか考えないと食えない」時代になったのだ。だから「XXが作れます」では食えないのだ。今の日本の製造業の仕事の肝は「何を作ればいいかを考える」ことである。その時代の始まりはおそらくSONYの「ウォークマン」だろう、とぼくは思っているが、その重要さに日本の多くの製造業者は気が付かなかった。

次世代の製造業は「なにを製造すれば食えるか」を考えるところから始める。より上流を考える必要があるのだ。