確かに、ぼくもこの最初の頃のPCに触ったことがあって、欲しいとも思ったけど、思い入れはない。この頃はシャープも頑張っていたし、富士通のも日立のもPanasonicのもあった。海外にも大小様々なPCがあって、とても楽しかった。日本はいまだ高度経済成長期の終わり近くで、繁栄もしていて、剥落した今の日本から見たら、ノスタルジーを感じるには十分すぎる環境だったと言っていい。

PCはあくまでぼくが子供の頃の、人生設計のために触ったものだったから、いろいろ熱中はしたものの、ゲームは時間の無駄と思って、やっていない。だからPCには「愛機」というような感情は持ったことがないが、ぼくの立場からは、おもちゃとも思わなかった。良き子供時代を思い出すアイテムでもなく、現在の自分には、こういったミニチュアに心動かされるということは、まるでない。

まぁ一般的な子供ではなかったよなぁ、と自分のことを思い出すばかりだ。ぼくは子供の頃から、コンピュータを触るとき「これで世の中がどう変わっていくか」がすごく楽しみで、ワクワクしていて、それで十分だったから、こういうおもちゃとしてのPCに興味が湧かなかったんだろうな、と思うよ。

だから、子供の頃から、「パソコン少年」みたいに思われるのはすごくイヤだったし、そういう子供の感性は、明らかにどうでも良かったのだが、ぼくを「パソコン少年」と勘違いした人たちがいっぱい寄ってきたのは覚えている。そういう人たちは、そういうぼくの力を無料に近いお金で買えると勘違いした商売人と、パソコン少年そのものの大人が、自分の仲間だと思ってやってくるかのどちらかだったんだが、ぼくはその両方のどちらとも親近感を覚えることはなかった。冷たい目で彼らを、どう使えるかだけを考えていた。

孤独ではあったけど、自分なりに未来を見据えた話をしていたので、楽しかったけどね。でもそれって、PCに関しては「同じおもちゃで遊んだ」という記憶や、その記憶に依拠する仲間意識ではなかったわけでさ。そんなことは、長じた今でも、どうでもいいことだと思っている。

ぼくが子供の頃から好きだったのは、変わっていく人間であり、人間社会だったのであって、モノとしての「おもちゃ」ではなかった、というだけのことなんだがね。