この「新型コロナウィルス事件」は、日本国内においては、今後の日本社会において「日本の政府は信用できない」という日本人の新たな「多数感覚」「多数意見」を形成することになるだろう。特にこれからを担う若い世代に、そういう感覚を作っていく。

ある意味、諸外国の国民と同じ、という水準にそれはなる。

政府に期待することはない、という世代が増えるのは、先の読めない不安な社会をさらに作り、多くの「これまで安定して当たり前にあったこと」を消して行くはずだ。と同時に「政府はなにやってるんですかね?」という「政府に向けた怒り」も減っていく。なぜかというと、国の政府に期待しているからこそ、その「怒り」は起きるからだ。つまり「政府なんて頼れない」ので、「期待もしない」ということになるからだ。これは諸外国では当たり前のことなのだが、国の政府が異常に強く、大きく国民から信頼される存在であったればこその「政府批判」であった、という面もあるからだ。つまり、「期待しないものに、いくら怒ってもしょうがない」という状況になりつつある。

コロナウィルスの「事件」とそのときの「国の政府の対応」は、こういった心理的に大きな変化を日本の国民にもたらした、と言っていいだろう。

かつて小沢一郎は「日本を普通の国にする」と言ったことがあった。それはこの世界的な新型コロナウィルスに関係する一連の騒ぎで、達成された。

一方で、日本以外の国や地域からの日本の国の政府への絶大な信頼も消えた。その証拠に「世界的な危機には日本へお金を移せ」という流れが、今回は止まったのを見てもわかるだろう。世界を支えるお金の地域的なバランスに大きな変化が生じているのがわかる。

つまり、日本経済のみならず、世界経済への大きな信頼のハブの1つであった日本経済も、この「新型コロナウィルス事件」への対応の失敗で、崩れたのみならず、世界経済全体にも、大きな禍根を作ったのだ。新型コロナウィルスへの対応を見くびらず、初動から精一杯で迅速な行動が必要とされたのは、実はこの「世界経済の崩壊の引き金」に、手が届かないようにするためだったのだが、そこまでわかっている人や、カンの働く人も、それに対処を迅速にできる人もいなかったのだろう。

たった今から、世界経済は、新らしく大きな変化の時代に突入した。柔軟な頭脳と迅速な行動で、大きく新しい変化に対応し、生き残る道を探す旅に、ヒトという種は出なければならない。その時が来たのだろう。250年前の産業革命以来の、大きな変化が来ているのではないか?と、私は思っている。