その昔、「左右の手で違う調で曲を弾く」っていうのを、ピアニストでやっている人がいて「すげーなー」だったんだが、今はもうそれ、キカイでできるよね?あんたキカイか?とか言われちゃう世の中になったんだね。

「キカイが簡単にできることを、人間がするなんてスゴイ」って、あんたはキカイ以下か?せいぜい精進すればいいよ。どこに持っていっても、その技術は価値はないけどね。ってことになる。

「職人技」と言われるもののかなりの部分は、実は、今や「キカイで置き換えられる、正確無比のキカイの代わり」だった、というのが、ぼくらにわかってきたんだね。多くの人に聴いてもらう音楽であれば「その音楽が現代に生きる意味」みたいなのが、もっと重要な要素になってきているんです。

「キカイの代わり」を人間がやって「すごいでしょ?」っていうのは、消えていく運命にあります。いや、既に消えてます。

であれば、職業音楽の本質ってのは、楽譜を正確無比に楽譜に沿って奏でることじゃない。いかにその曲を人が聞きたいと思うか?について、答えを出すことなんだな。人がしなくていいところは、人がしなくていい。人ができるところだけを人がすればいい。

音楽に限らないんだが、物事、特に仕事のデジタル化ってのは、要するに「人間がしなくていいことを人間がしなくていいようにする」という当たり前なことだ。それができる人を「職人」と呼んでいた遠い昔、キカイがまだ発達していなかった時代の「大切な技術」を未だに抱え込むことは、その人の人生を生きづらいものにするだろう。

つまり「デジタルは非人間的」というのは、正確ではない。「人間がやっていた、非人間的なものを非人間ができるようにした」というだけのことだ。だいたい、精進して正確な手さばきを人間が手にする、なんてのは、人間に非人間的なものを強いていたからこそ「訓練」「精進」が必要になっただけのことだ。

ということで、僕の仕事というものの一部は、そういう「人間」「非人間(デジタル世界)」という基盤を持たない人に、デジタル世界の基盤を提供することなんだが、別の一部は「人間社会にまだない、人間の面」をいちはやく探し当てて、それを世の中に出すことなんだな。と、最近は思うようになった。

この通りできるかどうかなんてわからないから、まだ試行錯誤しつつ、だけどね。デジタルの世界を開拓したときみたいにね。