もしも本当に「フーテンの寅さん」が目の前にいたとしても、日本の高度経済成長期のサラリーマンの多くが、彼のことを無視して通り過ぎただろう。そして、そういう人が「フーテンの寅さん」のフィクションを見て泣き笑いする。フィクションだから安心して「全く違う世界に生きる人」を見ていられるのだ。

そうしているうちに、日本人の殆どが現実の「フーテン」になる。日本人の子供が既に多くそうではないか。でなければ、なぜ「こども食堂」などがあるのだ?

日本人の多くは戦後の焼け野原から高度経済成長期に至って、日本人全員が貧困に苦しんだ時代を忘れた。しかし、なにか心に引っかかるものがある。苦い貧困の思い出が、豊かな時代に違和感を感じている。日々流れていく中で、それが、ひょんなことで顔を出す。その瞬間をぐいっとつかんで、日本の庶民サラリーマンに当たり障りのないフィクションとして見せる。それをエンターテイメントとして見せた。それが、若い頃の山田洋次の力だ。そして「寅さん」を見た人は思うのだ。「あぁ、私はここまで来た」。そして「寅さん」で本当は自分もどこかで知っていた別世界を見て、自分のいるところに安堵し、それがフィクションであることに安堵し、眠りにつき、いつもと変わらぬ朝を迎える。

高度経済成長期が終わり、下降線の時代がやってきた。寅さんというフィクションが現実に見え隠れして来たこの時期に、寅さんというフィクションそのものを、さらにCGというフィクションが包み込む。「寅さん(という映画が作られ、見られた)時代」においては「戦後日本の貧困」の時代を思い出させ、「今の低成長の現代」は、「寅さんという物語が作られた時代」を思い出させる。二重構造なのだ。「CGの寅さん」というものは。

横尾忠則という「世界的な表現の天才」がそのアイデアを考え、山田洋次がそれをパクったと横尾忠則氏自身に告発されたが、この横尾忠則の「閃き」を感じた山田洋次も、二番煎じとは言うものの、そのことがわかった、あるいは、いち早く気づいたという一点においてのみ、その行為が「こそ泥」であろうとも、評価して良い。結果はそれでも売れるが、それだけでしかないのではあって、今はそれでもいいのだけれど。

高度経済成長期、日本という地域に住む人の「戦後」の記憶は「寅さん」の中に封印した。誰もがその時代を忘れたいま、閉じ込めていた「懐かしくも忌まわしい記憶」の封印が外されようとしている。慌てて新しい封印を印刷して貼っても効果はないし、新しい入れ物で古い入れ物をさらに封印しても、無駄であろう。しかし、そうせざるを得ないのだ。それが人間というものの性だ。

「CGの寅さん」というのは、実はその「封印が解かれた古い入れ物を包む新しい入れ物」である。「寅さん」を見て懐かしんだ時代では今はない。今は「寅さん」があった時代を懐かしむのだ。