私は20年前以上のこの世界を日本も含めて見聞きしてそこで生活していた。直近の10年も見聞きし、そこで生活している。幸いなことに、現在も、かつてとは立場も役目も違うが、現役引退はしていない。だから私は、20年以上前の経験、言い換えれば日本の高度経済成長期の経験をした世代を「旧世代」と呼び、そういう経験をしていない人を「新世代」と呼んでいる。私はたまたまだが「インターネット」を日本に持ってくる仕事をした。直接的・間接的の両方で、だ。だから、私から見ると、「新世代」と「旧世代」を区別するキーワードは「インターネット」である。

これは私だけの見方ではないと信じているが、インターネットによって、「人」「モノ」「カネ」「知」のグローバル化・ボーダレス化に火がついた。最初はチョロチョロとしか燃えていなかったその火が、燎原を焼く火のように、瞬く間に燃え広がり、人類を覆った。その根底には進歩という名前の変化である「デジタルテクノロジー」がある。このテクノロジーを様々な思惑の人たちが、自分の都合の良いように解釈し、使おうとした。しかしそのデジタルテクノロジーを複雑に組み合わせて、インターネットを考え、実際に作って運用する人が出ると、インターネットは人類に大きな影響を与え始めた。遠隔地との情報のやり取りが、簡便で安価ですばやくできるようになり、人類の「地域による棲み分け」でバランスしていた社会が大きく侵され、新たな「グローバル」というコミュニティができて急激に成長するようになると、多くの「旧世代」の持つ考え方が「まるで意味のないもの」に成り下がった。

代わって「新世代の人類」が出現し、GAFAはその現代における、トップランナーとなった。

だから、この流れは誰しも抗することができない、人類の流れである、と、私は感じている。

そして今というときは「旧世代」と「新世代」闘争の時代である。かつてはイデオロギーで「東西」の闘争の時代があり、それに続いて、貧富で「南北」の闘争の時代があり、今は「ローカル文化(旧世代の文化)」と「グローバル文化(新世代の文化)」の闘争の時代である。「東西」「南北」ともに「地域」の対立であったが、現在は「ローカルとグローバル」の対立である。この戦争は、やがて「新世代」の勝利に終る。もしそうでなければ、人類の未来はない。しかも「旧世代」はこれから早いスピードでこの世から消えていくのだ。

若い人たちは「グローバルな新世代」という「革命軍」に、嫌でも所属する。ただ、それを自覚している若者は少ない。かつての「視覚的にわかりやすい」戦争のようなドンパチではなく、じわじわと変わっていく人の頭の中での、それは戦争だからだ。

インターネットは人類の在り方や存在意義を根底から変えていく役割を担って、この人の世に産まれた。地域というくびきを解き放ち、新しい人類の生きる意味を人類全体で考える道具にそれはなった。これから、地域に立脚した汎ゆる文化 ー例えば宗教などもその一つだー を内部から崩壊させていくだろう。

既に、旧世代の敗北は決まった。かつての産業革命はそれまでの人類が経験したことのない大きな変化で、その時代を想像するに、今と同じようなことが起きていたのだろう。であれば、人類は今回の「新しい環境の変化」に、柔軟に、かつ、古い自分を壊し新しい自分を作る、という覚悟を持って臨めば、人類の次の時代が開けるだろう。

それができる人が「新世代」である。そうでない人は「旧世代」に属する。それだけのことだ。頭をフルに働かせ、予期せぬ新しい変化、経験も役に立たない変化に、過去の経験などは捨てて、過去の自分も捨てて、臨むべきことに臨むのが、人類の人類たるチカラの発揮どころである。

もしもあなたが、悲しいことに「旧世代」を自覚しているのであれば、あなたのやることは「新世代」と戦うことではない。負ける戦は最初からやらないことだ。敗北を認め「新世代」の肩を叩き、「ぼくはもう疲れた。キミたちに全てを任せる」と一言言って、戦場を諦め、戦場を離れることである。

そうしなければ、旧世代のあなたは「新世代」から「悲惨な最期」を与えられるのがオチだからだ。

私はまだ「新世代」と「旧世代」の橋渡しの場所にいる。しかし、この立場も「旧世代」がなくなってしまったら、居所がなくなる。ベルリンの壁が崩壊し「東西冷戦」がなくなった時と同じことが起きる。おそらくそれは、もうすぐやってくる。この仕事からぼくが開放されたら、ぼくは何をしようか?今から「定年後」を考えている。