年末年始と秋葉原には行けなかった。それはともかく、先日、久しぶりに秋葉原を歩いた。見れば「PCの中古品を販売する店舗」が非常に増えた。3年前くらいのPCなどが、1/10の価格になっているものもあったが、電池は当然使えないので、これに新品の電池を入れ、故障している箇所を治す、ということになるだろう。ノートPCの場合は、CMOSメモリのバックアップ用電池は通常は充電式なので、これを取り替える必要もあるだろう。また、メモリの増設などもしたほうがいいし、HDDをSSDにすることによって、体感のスピードを劇的に上げることも考えると、なんやかんやで、3年前のモデルのノートPCを現在使えるようにするには、+2万円くらいは必要だが、それでもトータルではかなり安い。

日本は貧しくなったのだ、というのは、この中古市場の様子を見てもわかる。活況な様子がわかるのだ。しかしながら、中古と同価格かそれに近い価格で、新品の更に性能が良い製品も出ている。製造は日本では通常はない。

いまどき、スマートフォンやPCが日本で製造されているものはごく少なく、多くは日本のブランドは付けていても、中国製は当たり前だ。日本の会社のブランドは「高い」ので避けられつつある、というのも現状だ。いまどき、iPhoneが米国製だと思っているのは、仙人のような生活をしているような世捨て人くらいだろう。あるいは地球ではなく、宇宙から来た人か?

製造業のサプライチェーンは当たり前のように世界にはりめぐらされているから、既に「MADE IN XXX」の意味はない。その国のブランドがついている(表向きの製品の投資リスクをその名前で負う)、というだけだ。つまり「ブランド」は「資本」のありかの別名であって、製造業者では既にさらさらない。

「日本再興」という、高度経済成長期を知るおじいさんは多いが、それは、実態が見えていないだけだ。日本は第二次大戦後の世界的な製造需要と、冷戦の最前線から一歩手前にいたというラッキーから、戦後復興期は冷戦需要のお金で立ち上がり、その後は、世界的な戦後需要で、産業的な安全が保証されている地域として経済発展した。現在は、「冷戦」が取り除かれ、既にベルリンの壁はなく、南北朝鮮国境は半分が消滅しており、冷戦の時代は、たとえ正体不明のウィルスの地域的な流行などでの地域閉鎖があっても、その網の目の流通網はその地域を避けて網の目が成長するだけだ。以前と同じようなやりかたで「日本再興」ができるわけもない。

既に製造業をはじめとした「産業」は「地域」にはない。だから、地域の衰退も、地域の発展も、そんなに劇的にはなく、地球上に分散される。集中はしない。世界の人間社会は、そういう意味での「セーフティネット」を作ってきたのだ。

いま、日本は世界から見ても「後退しつつある先進国」になった。この流れでいけば、日本に再び「もの作り」は帰ってくるだろう。人件費がどんどん落ち込んでいるので、製造業は日本で工場を持ったほうが「安い」時代に入ったからだ。それだけ日本の経済は衰退したのだ。しかし、「第二次大戦後需要」がそこにあるわけではない、という世界の環境からすれば「あのときの夢よもう一度」にはならないだろう。第三次世界大戦は「人の破壊・モノの破壊」ではなく、地球規模のすべての破壊になるであろうから、それが一度起これば、産業も人もすべてを人類は失うだろう。タライの水と一緒に、赤子を流すようなことを、人類はするのか?しないのか?それはまだわからない。

「あの夢をもう一度」。日本再興とは、あの高度経済成長期を忘れられないおじいちゃんたちの幻想であり、二度とやってこない時代へのノスタルジーだ。グローバル時代の新しい価値観を受け入れ、そこに生きていくしか、人類の生きる道はない、と知れば「地域の再興」などは無い、と言い切って当たり前だろう。

そして、この前の土曜日、少し足を伸ばして、大船のBOOK-OFFに行ってみた。リアル空間でのヤフオクみたいな感じで、大規模な中古品の販売店舗があり、現状の品物を見て中古品を買うことができる。しかしこの「中古市場」の中にある「商品」には、もちろんピンからキリまであるのだが、その「暗さ」がどうしても頭につきまとって離れない。大船のお店には楽器も多いのだが「一攫千金を夢見た素人ミュージシャンが夢をあきらめた後の景色」がそこにあるように見えたからだ。まさにディストピア。まるで、放棄された戦場に散らばる武器の中古見本市である、というと言い過ぎだろうか?。その武器を手にした、新しい時代のミュージシャンに「勝利者」は現れるのだろうか?そこは「夢の墓場」のように見えた。

音楽で言えば、これから始まる時代は、楽器の熟練ではなく、音楽のコンセプトや演奏されるときと場所、などの社会的な関わりが重要になるだろう。だからこそ、エレキベースのボディに使い込んだであろう塗料の剥げを見るだけで、その「売られた楽器」への悲哀が感じられる。たとえば、だが、時代遅れになり、自らも老いて家業などを継がざるをえなくなったもう若いとは言えないバンドマン。もういらないから、と愛用のベースとアンプ、エフェクターやプロセッサを夢と一緒に処分する。そんな光景がまぶたの裏に浮かぶのだ。同時に、中古品はストレートな夢がまだあった高度経済成長時代の日本をも思い出させ、さらに悲哀が募る。

世界は国境をも超えて、密接につながっていて、そのどこかが切れても、とりあえず大事は起こりにくいように、私達はネットワークを作ってきた。それが人類生存のための人類の戦略である。であれば「地域」は既にあまり重要ではない。そして、古い時代の、地域に縛られたおじいちゃんたちは、置いて行くしかないのだろう。